子供にも妻にも、出しっぱなしの物があったら「片づけなさい」「しまってね」と声を掛けます。ただ、1回言ってやってくれることなんてほとんどない。だからだんだん言葉も険しくなるし大きくなる。大きな声で言われなくてもわかっている、と言うのですが、「わかっているならさっさとやってくれよ」というのが本音です。これを思いっきり声を大にして言いたい。
水はただ触れるだけだと抵抗をほとんど感じないけど、勢いよく叩くとその分抵抗を感じる。こちらの命令形の言葉に対する反発も同じようなものなのだろうか。
家事について気になる記事があったのだけど、家事をやってくれない夫に対して、妻がどのようにすれば夫はやってくれるようになるのか、というものだった。「家事の仕方がわからないかもしれない」「夫がやったことに対して否定から入るのではなく大目に見てあげて、まず感謝を」とか「やる気を損ねないように、ほめてあげる」とか書いてあったのだけど、違和感しかない。
その記事の中の夫に対して「お前、何様?」「いい年した大人がやる気を損ねるとか家事舐めすぎ」と思いっきり言いたい。その夫様は仕事において部下や同僚に同じように丁寧に接しているのだろうか。
私は山本五十六ほど人間ができていないとつくづく思う。
「やってみせ、言って聞かせてさせてみせ、そしてほめてやらねば人は動かじ」
「話し合い、耳を傾け承認し、任せてやらねば人は育たず」
「やっている姿を感謝で見守って信頼せねば人は実らず」
相手が自分の思い通りに動かないことにいら立ちを募らせるようでは私の人間としての器がまだまだ小さいということなんだろう。命令形を使って人をコントロールして動かそうとすることが間違っているんだと思う。「片づけてくれると嬉しいな」とか「汚い部屋で生活したくないよね」とか相手のモチベーションに働きかける問いかけがいいのだと頭ではわかっているつもり。ただ、それを口に出すのに大いに抵抗があるのだ。だってそれまでに苛立ちという感情が先に立ってしまっているから。
ミニマリストへの道は、人格修養の道でもあると思う。
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